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旅する木を文化にしたい!
今年の北海道は、昨年に比べて、過ごしやすい日々が続いていて、ありがたいです。
今、僕は元プロ野球選手のYouTubeにハマっています。
特に、上原投手のチャンネル『雑談魂』は、面白くてしょうがない。その中でもPL学園のOB達の、PL学園時代の寮での話は大爆笑です。
その中でも特にお勧めは、入来選手の5/8チップ事件と、キーホルダー事件は、腹を抱えて笑いました!是非ご覧ください。
こういうYouTubeを見ていると、お勧めとして、野球のチャンネルばかり紹介されるもので、その他も勧められるまま、見てしまいます。(思う壺にハマってる)
こういうチャンネルの面白いのは、選手時代はそれぞれライバルだったり、接点がなかったりして、交流がなかった二人が、それぞれ引退して、何年も経って、今だから語れる当時のことが知れるところです。
当時、不仲説もあったイチローと松井の最近の対談も、両者のファンの僕からすると、感慨深いものがあります。実は、お互いにリスペクトし合ってたんだっと、妙にほっとするというか。
イチローといえば、ちょっと前に、米国野球殿堂入りをしましたよね。
その時のスピーチで一番印象的だったのは、ずっと英語で喋っていたのに、急に日本語で、
「野茂さん、ありがとうございました!」っと叫んだ場面です。
なぜ、イチローは米国野球殿堂入りの舞台でのスピーチの中で、
「野茂さん、ありがとうございました!」っと叫んだのでしょうか?
日本での輝かしい実績とエースという地位、名誉、そして1億数千万円という年俸などの全てを捨てて、しかも、日本中から裏切り者、わがまま、恩知らずと罵られながら、日本人野球選手として初めてアメリカに渡り、アメリカ人からも、差別と屈辱的な態度をとられながらも自分が信じた道を貫き、やがて、低迷期だったアメリカのベースボールを、再び熱狂と歓喜の渦に巻き込んだ、『野茂英雄』という、最初から最後まで孤高でパイオニアだった男がいました。
1989年、8球団からドラフト1位指名(今だに歴代トップ)され、近鉄(現在のオリックス)に入団した野茂は、1年目には、最多勝や最優秀防御率、最多奪三振など投手の全ての部門でトップを獲得し、それから4年連続の最多勝という偉業を達成します。

この活躍を支えたのは、トルネード投法という、独特のフォームから繰り出される豪速球とキレのあるフォークでした。
バッターに背を向けるこのフォームは、当時の野球の常識からは逸脱したものだったのですが、近鉄の仰木監督は、野茂の考えを尊重し、フォームについて口を出すことはありませんでした。
ちょっと話はそれますが、仰木監督といえば、イチローの恩師でもあるんですよね。イチローの振り子打法にも、口を出さなかったんだそう。
結果が出ればそれで良い。先ずはやりたいようにやらせてみて、結果が出なかったら、本人が考えるだろうっというスタイルが、野茂やイチローのような個性的な才能を伸ばしたんだと思います。
野茂の輝かしい野球人生ですが、仰木監督が退任し、鈴木啓示という、通算314勝を挙げた大エースが監督に就任したことで、暗雲が立ち込めます。
大胆かつ独特なフォームから繰り出される豪速球で、三振も多く取るのですが、その副作用として、フォアボールも多い野茂の投球を見て、野茂の代名詞である、このトルネード投法のフォームの改善を迫ります。
自分自身が大投手だったこともあり、フォームだけでなく、トレーニング方法も、自分のやり方を強制します。
自分のプレースタイルや、調整方法に、理論と信念を持つ野茂とは、当然ぶつかります。
これについては真意はわかりませんが、ある試合で、野茂が打ち込まれ、ボロボロになっても、鈴木監督は「自分に逆らったらこうなるぞ」っという見せしめるかのように投手交代をせず、プロ野球ではあり得ない、選手生命をも脅かす191球も投げさせ、その試合で野茂が与えたフォアボールは16個という、今でも日本記録になっているんだそう。
このように監督との確執と、球団側の、選手は球団の所有物という、選手軽視の態度に、野茂は居場所をなくしていきます。
そこで、野茂は、選手が球団と対等な立場で交渉できるように、代理人交渉による複数年契約を球団側に求めます。
球団は野茂の要求の一切を認めず、「球団側の条件で契約しない限り、トレードや自由契約にもしない。任意引退扱いにする」っと迫ります。
任意引退した選手は、他球団に入団することはできないことが、野球協約の中で明示されていました。言うことを聞かなければ、もう二度と野球をさせないぞっという脅しですね。
もう二度と野球はさせないっという球団の明らかな脅しの任意引退に、野茂はあっさりと応じます。
実は、これ以上近鉄で野球を続けることはできないっと判断した野茂は、代理人の団野村と、野球協約を隅々まで調べ上げて、ある盲点を見つけます。
『任意引退した選手は、他球団に入団することはできない』っという野球協約は、日本のプロ野球界が対象で、アメリカは対象外だということ。
脅しのつもりの任意引退を野茂が受け入れたことで、球団は困惑し、今度は制止しようとしますが、野茂はそれを振り切り、近鉄を退団し、翌日、メジャー挑戦を発表します。
球団やマスコミが、野茂の任意引退の目的が解ると、一斉に野茂バッシングをします。
僕は20代だったので、この時の野球界OBや、マスコミの、一方的な野茂バッシングは覚えています。
野茂が口数の少ないことも、印象を悪くしていた感じはあります。
「通用するわけがない」「裏切り者」「生意気」などなど。
野茂は一切の反論をせず、ドジャーズとマイナー契約をします。
日本での年俸が1億4000万円だった野茂の、ドジャーズとの年俸契約は980万円。
日本を代表するエースの価値は、当時のメジャーからは、その程度だと思われていたんですね。
マイナーからメジャーに昇格した野茂は、圧巻の投球で、メジャーの打者から三振の山を築き、勝ち星を重ね、その年のオールスターにも選ばれ、そこでもメジャー屈指の強打者から次々に三振を取り、野茂の人気は最高潮に達します。
野茂がアメリカに渡った年、メジャーは選手会のストライキにより、人気に陰りが生じ、球場からファンの足が遠のいていたのです。
ところが、野茂見たさに、野茂の登板する日の球場は、溢れんばかりに人が集まり、全米だけでなく、日本を含め、世界中でドジャーズの試合が放送され、アメリカで再び、ベースボール人気が高まり、野茂はメジャーの救世主となるのです。
メジャーでの鮮烈なデビューから快進撃を続ける野茂も凄いのですが、選手としては晩年の、肘の手術を繰り返しながらも、不屈の精神で不死鳥のように蘇る野茂にこそ、野茂の凄さの真骨頂があるような気がします。
そちらの物語は、なにかYouTubeをご覧ください。
このように、日本野球協定の盲点をつき、日本野球界やマスコミを敵に回して、散々にバッシングを受けながらもメジャーに行って、伝説的な活躍をし、日本人選手は通用しないという評価を覆し、日本野球界にメジャー挑戦への道すじを作り、その道を通って、後のイチローや松井、大谷といった、メジャーでの日本人スター選手が誕生したのです。
イチローの米国野球殿堂入りの舞台での
「野茂さん、ありがとうございました」の言葉の理由はここにあったのです。
引退後、野茂は言っています。
「別にメジャーに挑戦しなくたって本当はよかった。自分が好きな野球ができればそれでよかった」っと。
僕が野茂の物語に魅かれたのは、むしろ、この言葉の方でした。
人生で起こる出来事の意味は、後になって解るもの。
野茂じゃなかったら、これだけ激しいバッシングを浴びせられながら、すざましく不屈な精神力で、未知の扉をこじ開けることはできなかったと思います。
逆に、その扉をこじ開け、道を切り開くために、野茂にとっては耐えがたい不条理な出来事が起きたんだという見方も出来ます。野茂には、そういう役割があったのだと。
野茂には、それができる精神的なタフさとパイオニアの精神があったと。
イチローや松井や、後々メジャーで活躍する選手たちには、野茂と同じことはできなかったんだと思います。
その選手達には、その選手の為すべき別の役割があるのだと。
誰もが人生の中で、望まない出来事が起こるものです。
そんな時、こういう風に考えると、その望まない出来事さえも肯定的に考えようと思えて、ちょっと気持ちが楽になります。
今は解らないけど、何か自分にはこれを乗り越えるべき役割があるのだろう。それを信じて、目の前のことを真剣に取り組もう!いつか、この出来事が起こってくれてよかったっと思える日が来るっと。
この、野茂のストーリを知った時、今の自分と重ね合わせる部分があり、心に刺さったので、ブログに書こうと思いました。
コロナ、戦争、円安など、世界情勢、社会不安による物価高騰で、今、建築費はものすごく高騰しています。
建築関係の見積もりの有効期限は2週間だと言われています。今までは3ヶ月だったんですけどね。つまり、2週間前と今日とでは、価格が違う。それほど資材関係の価格の変動が著しいんです。変動と言っても、高くなる一方なのですが…
旅する木は創業から一貫して、お客様の喜ぶ顔を直接見たい、喜ぶ声を直接聞きたいっという思いから、下請けをしない、卸をしない、エンドユーザー直っというやり方でやって来ました。
偶然旅する木に出会ってくれたお客様とのご縁を大切にして、その人に寄り添って、心から喜んでもらう家具を作る。これがやり甲斐であり、喜びだったので。
このやり方で20年、続けてきたのですが、このエンドユーザー直というやり方が今、物価高騰の時代に苦戦を強いられています。
家を建てる方が、建築費で精一杯。オーダーキッチンを入れたいんだけど、そこまでの余裕がない。家具も、とりあえず今までのものを使って、そのうち…っという感じで。
コロナの時もそうだったのですが、木材や建築資材は一度値上がりたら下がることはないんですね。
建築費はこのまま上がることはあっても、下がることはないと思います。
そうなると、この状況の中でやってかなければならない。
20年、やってきたやり方の何かを変えなきゃいけない。
下請けをする、ショップに卸して売ってもらう…
そのことを真剣に考えました。
そんな時にダイニングテーブルと椅子を納品したお客様からのメールが届きました。
そのまま添付します。

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須田さま
本日はダイニングセットのお届けありがとうございました。
椅子の座り心地が良いせいか、何もせずにボーっと小一時間が過ぎてしまってびっくりしました。
これまで「家にいて何もしない」ということがなかったのですが、初めて「家でくつろぐというのはこういうことか」と思いました。
テーブルも、あまりにも美しくて「モノを置かない」「何か出したら片づける」が自然にできています。
この木はどういうところで育ったのか。
はるばる我が家まで来てくれてありがとうという気持ちです。
これから第二の人生が始まるのだという実感がわいてきました。
長く大切に使わせていただきたいと思っています。
この度はありがとうございました。
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とっても嬉しくなりました。
やっぱりこれだよなあ。こういう声を聞くために、こういう笑顔を見るためにやって来たし、これからもやっていきたいっと思いました。
でも、何かを変化させていかなければいけない。初心の考え方を変えるのはやめよう。そこを変えたら、旅する木は旅する木ではなくなってしまう。
そこで、僕が出した結論は…
建築をやっていこう。『旅する木の家』
家から家具、暮らしに使う器や生活小物まで全てを旅する木が手がける仕事をしたい。
これは、旭川での修行時代に思い描いていた夢。
行き詰まって、不安に呑み込まれ、妬み悩み、苦しんだ挙げ句、辿り着いたこと。
それは、ずっと心の隅に消えることなく、恥ずかしそうに体育座りをして、ひっそりと佇んでいた僕の分身のような夢。
この夢が生まれたのは…
僕が修行していた旭川の会社は、5,6人の小さな会社だったのですが、一番腕の良い先輩一人だけが、オーダーの特注の仕事をしていて、僕を含め、他の人は、東京の有名な家具ショップの既製品を製作していました。
既製品(規格が同じもの)なので、3年も経てば、図面を見なくなって作れるようになる。
とにかく貪欲に技術を身につけたい、難しい仕事をこなせるようになりたい、っと思っていた僕は、密かに、休み時間とか、みんなが帰った後、その先輩のやっている図面を覗き見たり、製作途中のパーツを分解してみたりしていました。
そして、自分がそのポジションにつきたくて、早く先輩、会社辞めないかな?なんて思っていたものです。
その願いが通じてか、ある日、その先輩が辞めることになったんです。
そのポジションが空く。
実力的に、そのポジションに着くのは…?
俺だろ。
っと思っていたところ、そのポジションに着いたのは、後輩でした。
もう腹わた煮えくり返るほど悔しい気持ちでした。
実力は俺の方が上、やる気も情熱も俺の方がある。なんでだ!ふざけんじゃねえ!っと。
それでも僕はその会社が好きで、辞めたいとは思いませんでした。
自分だけの特別な居場所が欲しかったんでしょうね。
屈辱と悔しさの中、一つの夢が生まれました。
『建築をやっていきたい』
東京のショップに卸す家具を作っていた僕のところには、その家具を使っているお客さんの情報は一切入ってこない。
どのような家に入るんだろう?どのような空間なんだろう?どのような家族が暮らしているんだろう?喜んでくれているのだろうか?
僕にとって、そこが伝わって来ない家具作りが、だんだんつまらなくなって来たんです。
そこで、家を設計し、そこに落とし込む家具も製作し、小物クラフトまで含めて、全て提案、製作するような仕事をしたら、それはとても楽しくて、やり甲斐を感じられるのではないかっと思ったのです。
「よし、この会社に建築の設計部門を作ろう。そのために二級建築士を取ろう!」っと、独学で建築の勉強をし始めました。
めちゃくちゃ勉強しましたね。
仕事から帰って来て、パパっ子の娘と遊んで、寝かせて、それから勉強。
どんなに眠くても、飲み会でお酒を飲んで帰って来ても、必ず教科書を、一瞬でもいいから開くことを自分に課して、一年間やりました。
模擬試験で酷い成績だったので、建築士の予備校の営業マンから、「絶対に独学では無理!」
っと言われたのを覆し、合格しました。
まあ、僕が勝手に夢を思い描いて、先走ってやり始めたことなので、会社はそういう方向に行くつもりはなく、結局その会社を辞める決断をしました。
その後、紆余曲折あって、家具で独立することになり、旅する木を立ち上げました。
ちょうど20年前のこと。
こういう経緯だったので、独立後も、下請け、卸しはしない。とにかくお客様の顔や暮らしや、喜んでくれている様子が伝わる距離で家具作りをするっと決めて、やって来ました。
営業もせず、経営のことも解らず、ただただ偶然、出会ってくれたお客様に喜んでもらうためにやれることは全部やるっとやって来て、ありがたいことに、20年、一度の赤字もなく、数字を見れば、ほぼ右方上がりでやって来れました。
ところが、昨年、今年と苦戦していて、何かを変えかければ…っと考えていたんですね。
建築費の高騰で、このような状況に追い込まれている中で、
「建築をやっていこう!」
だなんて、一番バカげているというか、一番無い選択だと自分でも思うんです。
でも、何かを変えなければならないっと悩んで、散々考えて、スタッフとも話し合って、出した結論は、ビックリするほど簡単なことでした。
「楽しい木工をして行こう!考えられる中で、一番面白い木工をやって行こう!」
そう決心した時、僕の心の隅でいつも、申し訳なさそうに歯に噛んでいた若かりし日の僕の夢が、
「僕?僕?一番?僕でいいの?」
「うん、今までほったらかしにしていてごめんね。やっと君の出番だ」
っというと、僕の心からブワ〜っと溢れ出て来ました。
上手くいくかどうかなんて、今は判らない。
でも、僕の中に30年も消えずに、ずっと居続けてくれた夢なのだから、最後に僕が現実にしてあげなきゃねっと思うのです。
あの時、先輩のポジションに僕がついていたら、この夢は生まれなかったのかも知れない。
修行時代の会社に、建築部門ができていたら、そもそも旅する木が生まれなかったかも知れない。
今も仕事が順調だったら、この夢は相変わらず心の隅でひっそりと佇んだままだったのかも知れない。
5年後、レンガの土台に一枚一枚カンナを掛けたウッドシングルの壁、優しく出迎えてくれるメープルの玄関ドアを開けて中に入ると、メープルとは対照的なウォールナットの、幅の異なる4種類のフローリングが素足に心地よい。壁は漆喰の塗り壁で、空気が美味しい。天井には、フローリングと同じく、幅も長さも異なる白樺が貼ってある。
奥様が木のキッチンで料理をしていて、すでにいくつかのナラの平皿に盛られたおかずは、チェリーのビーンズテーブルの上に置かれている。
屋根裏は1Fとはまるで異なる、6種類の樹種の可愛らしい正方形の板を敷き詰めた、ワクワクするような遊び心満点のフローリングが、遊び心ある旦那さんにピッタリ。ここは旦那さんの趣味の釣りで使うルアーを作る場所。
子供たちはもうみんな独立して別の場所で生活している。
ここは夫婦二人、悠々自適に暮らす旅する木の家。
屋根裏に漂う良い匂いに誘われて、旦那さんが下に降りてくると、テーブルには大小様々な木の器に盛られた夕ご飯が並んでいる。
電気を消すと、部屋のあちこちに置かれたチェリーの木端を芯にしたローソクの明かりがなんとも言えない良い雰囲気を演出してくれている。
「いただきます」の前に静かに手を合わせると、木のローソクから、微かにパチパチと心地よい音がしている。


こんな暮らしを楽しんでいる夫婦が何組もいてくれて、こんな暮らしを望む夫婦が何組もいてくれて、僕らは、その人たちが、暮らしの中で、
「こんなの作って」っと頼まれたものを、丁寧に、美しく、手間をかけて作る。
これが今の僕が考えられる中で、一番楽しい木工。
形体も思想も違うけど、19世紀から20世紀にかけて、アメリカのシェーカー教団は、コミュニティー(教団員)が暮らす建物から、家具から生活で使う道具など、ありとあらゆる全てを自分たちで製作していた。
その一つ一つがとても丁寧に作られていて、美しいのです。
オリンパスでカメラの開発者をしていた僕の心を、一瞬で鷲掴みにして、家具の道に引きずり込んだのが、シェーカーの椅子と暮らしの美しさでした。
『旅する木の家』を中心にした、心の豊かな暮らしを求めるコミュニティーが生まれ、その暮らしの中のどこを切り取っても、金太郎飴のように、旅する木の片鱗が感じられる。
旅する木が、そんな、物ではなく、文化に近い存在になればいいなっと思います。
今この状況の全てが、このような夢の実現につながっている。
いつか、スタッフなのか、はたまた、旅する木の家に住んでいる人なのか、誰かに
「須田さん、ありがとうございました!」
と言ってもらえたら、嬉しいな。
長々とした話を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
YouTubeで野茂の話を見ている時、今までの自分と重なる部分と、これからの自分と重なって欲しいという気持ちも混じり合って、そんなブログを書こうと思って書き始めたら、こんな長いブログになってしまいました。
度々、過去のブログでも書いていますが、僕は、出会うべき人とは、出会おうとしなくても、出会ってしまうものだと信じています。それが、旅する木が営業をしない理由でもあるのですが、この考えに一つ、夢について、追加されました。
今までそんなこと思ってもいなかったけど、今、こんな風に思っています。
もしかしたら、夢って叶えようとしなくても、叶えざるを得ないものなのかも知れないなっと。
PS
実はこんな夢をSNSで語ったところ、今年の初めに一緒に仕事をして、キッチンを製作させてもらった札幌の設計事務所 House & House の須貝さんが『旅する木の家プロジェクト』に協力を申し出てくれて、地元の工務店、辻野建設さんも快くプロジェクトに参加してくれることになって、進めることになりました。
現時点では、僕の中で旅する木の家の方向性を、僕が家具への道に入ったきっかけのシェーカーの思想を参考に組み立てているところです。







