余命宣告で1年と言われた…ら | 札幌のオーダー家具・オーダーキッチンなら家具工房【旅する木】

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余命宣告で1年と言われた…ら

先ずは上の画像をクリックしてください。
YouTubeをご覧になれます。
その上で…

っていうか、この動画、笑っていんですか〜?
って、まあ、すでに大笑いしてしまっていますが…(笑)

そういうことですよね〜。人生って。

「人生とは、何かを計画しているときに、起こってしまう、別の出来事のこと。」
(星野道夫『旅をする木』より)

とは言うものの、さすがに粗品のお父さんのような出来事はちょっと…ねえ。

 

ちょうどこの動画に出会う前に、ある人から”生き方”を問われました。

「もし余命半年って宣告されたら、何をする?」

 

みなさんはどうしますか?

僕は速攻、旅する木をたたんで、豪華客船で、世界一周旅行…

ん〜、それはないなぁ。

 

今のところですよ。本当にそうなったら解りませんが、今のところ、僕が思っているのは…

HPで自分が余命半年ということを公表して、僕と旅する木に家具と車椅子を製作して欲しい方を募って、淡々と製作していくんだろうなぁ。っと思います。

 

僕にとって 『仕事』=『自分の魂の表現』

なんですね。お金を稼ぐ手段ではないんです。
もちろん、結果としてお金は稼ぐけど、それが目的ではないんですね。

なので、余命がわかったら、その限られた時間の中で、一つでも多く、魂が踊るような仕事をしていたいなぁ。と思うんじゃないかな?と思います。

その合間に、お世話になった人にお礼を言いに行き、「ごめんなさい」を言えなかった人に「ごめんなさい」を言いに行き、会いたい人に会いに行く。

そして穏やかにそっと消えていく。

これが理想ですね。

 

僕は自分の中で、ある死生観を持っています。

それは 『輪廻転生はある。』

というもの。

『人は生まれ変わる。』

だから

『前世もある。』

と思っています。

かといって、前世占いをしてみたいとか、自分の前世を知りたいとか、そんなことは思いません。
ただ、そういうものがなかったら、説明できないことが世の中にはあると思います。

常々思っているのですが、個々の人間の能力になんて、そんなに差はないと思うんです。
それでも得手、不得手があったり、好き、嫌いがあったりするのって、前世でそれに携わったり、やってみたいと思っていたりしたことなんじゃないかな?と思うのです。

 

有名な逸話として。

モーツァルト が4歳の時、音楽家の父親とその仲間たちの演奏を一度聞いて、習ったこともないバイオリンで、その曲のバイオリンのパートを間違わずに弾いてしまったんだそうです。

これって、持って生まれた能力だと説明するには無理がありませんか?
前世で音楽、バイオリンをやっていて、脳での記憶はないとしても、魂としてすでに経験していたのかも知れません。
その説明にも多少無理がありますが…

また、モーツァルトの楽譜には、修正した跡がないのも有名な話ですよね?
頭の中で完璧に曲が仕上がっていたんですって。

 

いろんな分野の偉人たちが何かを成し遂げた時、多くの人が同じことを言います。
「降りてきた。」
「振り返ってみると、自分でそれをした(作った/発見した/発明した)とは思えない。」

 

もしかしたら ”前世での体験” ということではなく、この世界のどこかに、過去から未来を含めた全人類の叡智が蓄積されている ”叡智の泉” のようなもの?場所?があって、僕たちにはその泉にアクセスすることが出来るのかも知れません。

自分の興味のあることに集中して思考を巡らす時、その”叡智の泉”に繋がって、そこからそのことに関する情報や能力を受け取ることができて、それは、”降りてくる”という感覚で受け取るのかも知れません。

そしてそこにアクセスするには、何かしらのカギというか、条件がいろいろとあるんだろうけど、その中の重要な一つに、”好き”というものがあるんじゃないのかな?と思います。

なぜそれが”好き”か?
というところに前世が影響しているのかな?と思います。

 

僕自身のことを言いますと…。

幼稚園の頃、友達を作ろうとせずに、誰とも喋らず、木の積み木で、一人でいつまでも遊んでいたんだそうです。
その積み木はとても大きな積み木で、子供が入れる家とか、橋とか作れるんですね。
きっと今だったら危ないとかいう理由で許可されないかも知れません。

その積み木で僕は所々に落とし穴を作るんです。
周りの子供たちは、完成した頃、僕の作品(?)のところにやってきて、乗って歩いたりして、落とし穴に引っかかってキャーキャー楽しんでいる。
僕はただそれを見ている。
子供たちは最後はバラバラに壊してまた、自分たちの遊び場に帰っていく。僕はまた一人、積み木で作品を作り始める。

親がこれではまずいと思って、幼稚園にある積み木と同じものが家にあれば、幼稚園では友達と遊ぶんじゃないかと思って、同じ積み木を買ってくれたらしいのですが、残念なことに僕は、家でも幼稚園でも、ひたすら積み木で遊んでいたんだそう。

よっぽど”木”に触れていることが好きだったんですね。
そんな積木少年は今、”木”で家具を作る仕事をしている。

だから僕は
『仕事』=『自分の魂の表現』
という感覚なのかも知れません。

 

でも、この家具作りの世界に入っても、僕はなんか少し違うというか、違和感を感じることがあります。
十分近いんだけど、まだちょっとズレいている。ドンピシャじゃない。

 

僕が本当にやりたいことは、まさに幼稚園の時のそれ。

”木で遊ぶ”

なんだと思います。

 

僕がオリンパスのカメラの開発者を辞めて、木工の道に入ったのは28歳の時。
旭川高等技術専門学院という、いわゆる職業訓練校ですね。二年制の。

その一年生の夏に作った作品がこれ。
その名も『音符ザウルス』!
ご覧ください。

一年生の夏ということは、これ、木工の道に入って3〜4ヶ月で作ったんですね。

自分で言うのも何ですが…

なにこれ!天才!!(笑)

って思います。
世界の偉人には遠く及びませんが…(笑)。

 

この作品こそが、僕の中でドンピシャなんですね。

 

”木で遊ぶ”

 

木に触れることでもなく、木で家具を作ることでもなく、”木で遊ぶ”。

『木の車椅子』は、すごい真面目路線の ”木で遊ぶ” の延長上にあるような気がします。
だから採算とか収益とか考えずに14年も試作をやってこられたのかな?

正真正銘の ”木で遊ぶ” の代表作 『音符ザウルス』は、今も工房のショールームの入ってすぐにのところに ”います” ので、興味のある方は見に来てください。

 

冒頭で「もし余命半年って宣告されたら何をする?」の質問に、カッコいい答えを述べましたが、もしかしたらそんな募集はせずに、僕の最後の時間は、『音符ザウルス』のような、徹底的に ”木で遊ぶ” 作品作りに没頭するのかも知れない。

このような作品こそが、僕がこの世界に生きて、”本来の自分を表現” した証になると思うから。

 

幼稚園の頃の僕は、積み木で落とし穴を作ることが、誰とも喋らなくて、友達がいない僕の、周りの子供たちとの心の中での ”会話” だったような気がします。

そして時々思うのです。

『音符ザウルス』の引き出しを開け閉めする時の鳴き声は、そんな喋れない子供の頃の僕の、”心の声”を代弁してくれているんじゃないかと。