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その時、歴史が動いた!

 

『水清ければ 魚棲まず』

僕の両親は、無類の温泉好きで、子供の頃、毎週末、隣町の下諏訪、上諏訪の温泉に連れて行かれました。
父は歴史が好きで、温泉に入りながら、よく戦国武将の話をしてくれたものです。

僕の故郷は長野県なので、たまに”信玄の隠し湯”などと呼ぼれている秘境の温泉にも行きました。

そんな父の語る歴史の話が好きで、同じような話に対し、同じような質問をして、同じような答えが返ってくると、なんか安心したものです。

多分にその影響のお陰で、僕も日本史、特に戦国時代が好きです。

 

上記の言葉。

『水清ければ 魚棲まず』

天下分け目の戦い(関ヶ原の戦い)で徳川家康に敗れた石田三成の話の時に、必ず父が口にした言葉。

 

石田三成は頭脳明晰で、先見の明もあり、優れた行政能力もあったのですが、如何せん、性格が、真面目で正義感が強い。それも度を越している。意図していないような些細な不正も許さないという性格。

また、秀吉からも特別可愛がられていたことによる武闘派の諸将からの嫉妬もあり、関ヶ原の戦いでは、多くの武将に支持されず、最後は裏切られ、天下分け目と言われる戦いも、わずか1日で決着がついて、敗北します。

 

「正しさや潔癖さも度を越すと、人はついて来ない。結局、ズルくて、根回し、時に恫喝をした家康に、人も、時代も味方をしたんだ。修司も、清ければいい、正しければいい。というものではない。時にズルさも、汚さも必要だ。」
というようなことを子供の僕に話していましたね。

そうして、スーパーとかで障害者用のスペースしか開いていない時、そこに車を止めて、
「修司、足を引きずって歩け。」
などと言われて、それはどうなんだ?と子供ながら思ったものです。

↑ かれこれもう4,50年も前の話なので、お許しを…(笑)

 

そんな風に育ったものの、どちらかというと、僕は真面目で、正義感が強い方でして、心のどこかに
『正しい方が勝って欲しい。正しい方に神様は見方するはず。』
という気持ちがあります。
これは誰にでもあるんじゃないですかね?

石田三成 については、本人の性格に問題はあるにせよ、大局観で見ると、秀吉との約束を破りまくって、天下を我ものにしようとする家康と、その魂胆を見抜いて、豊臣家を守ろうとする三成では、正義は三成にあると思われます。

これがまだ天下統一されていない、いくさが絶えない時ならば、『戦いのない平和な世の中を作るため』という大義があるのですが、すでに天下は統一されているわけですから、言ってみれば家康の『天下を我がものにしたい』という欲望しかないわけで、そこに正義はないと思ってしまいます。

 

”関ヶ原の戦い”を考える時、僕は心の奥の方で、「家康は負けて欲しい」という思いがあるんですね(笑)。別に石田三成が好きというわけではないのですが。

「正義に勝って欲しい」

という思いなんでしょうね。

そして同時に、もし僕がこの時代の戦国武将だとしたら、
1600年10月21日に、関ヶ原の草原にいたとしたら、
石田三成率いる西軍、徳川家康率いる東軍、どちらにつくだろうか?

と考えるんです。

 

前置きが長くなってしまいました。
なぜこのことを思ったかというと。

昨年からハマりまくっている作家、今村翔吾の『八本目の槍』が、石田三成 の人物像を描いたもので、この本がとても良い!本当に面白い。読み終わってすぐに、二度読みしてしまいました。

 

すごくわかりやすく言いますと

豊臣秀吉(まだ羽柴秀吉の頃)の身の回りのお世話係(小姓組)をしていたものたちの中に、若い石田三成と、同期であり、ライバルであり、後に『賤ヶ岳七本槍』と呼ばれる、秀吉の元で出世していく者たちがいます。

言ってみれば、修行時代、同じ釜の飯を食い、毎日遊び、凌ぎ合い、切磋琢磨し、技と知識を競い合い、教え合い、硬い絆で結ばれた仲間たちなわけです。

地位も私財も何も持たない若者たちが、秀吉の元で知恵を縛って、体を張って活躍して、認められて、やがて大名になっていった7人ですが、慕っていた秀吉が死に、天下を手中に修めようとする家康と、豊臣の世を守ろうとする三成が衝突する関ヶ原の戦いで、それぞれ、家康につく者、三成につく者、戦いの最中に三成を裏切る者、彼らの目線、立場から見た、”石田三成”とは? を描いた小説です。

一本目の槍 虎之助こと、加藤清正。関ヶ原では東軍(家康)
二本目の槍 助右衛門こと、糟屋武則。関ヶ原では西軍
三本目の槍 甚内こと、脇坂安治。関ヶ原では西軍、しかし最後に寝返って東軍につく。
四本目の槍 助作こと、片桐且元。関ヶ原では西軍
五本目の槍 孫六こと、加藤嘉明。関ヶ原では東軍
六本目の槍 権平こと、平野長泰。関ヶ原では東軍
七本目の槍 市松こと、福島正則。関ヶ原では東軍

聞いたことのある武将もそうでない武将もいますね。

小説『八本目の槍』を読むまでは、加藤清正とか、福島正則など、武闘派で、東軍を代表する武将が、実は石田三成と幼い頃から、こんな風に深く繋がった仲間だったことを知りませんでした。
さらに、関ヶ原の戦いの最中に寝返った脇坂安治についても、卑怯な人だと思っていました。

ところが、『八本目の槍』の中で語られる、それぞれ一人ひとりの人物像、大切にしているもの、背景などを知ると。それぞれの心の中に、その人なりの大義と正義があることがわかります。

一見矛盾しているようですが、豊臣家の存続のために、家康に付く者。
惚れた女のために、家康につく者。
家康のスパイで、秀吉や仲間をずっと裏切ってきたことを三成に見破られ、これでやっと人の道に戻れるとホッとした時に掛けられた三成の意外な言葉に、己の宿命に対する覚悟を決め、家康につく者。

そして三成と最も気が合わず、見方によっては敵対していたと思われていた七本目の槍、福島正則。
捕らえられ、切腹の時を待っている三成との暗号のような会話の中で三成の胸の内を読み取り、その後、三成のすべてを知って淀君に放たれる一言。

「八本目の槍でござる」

歴史の中では『八本目の槍』なる人物は存在しない。

でも、この『八本目の槍』こそ、石田三成その人で、三成の死後、10年以上も家康が豊臣家を滅ぼすことができなかった呪詛を家康に掛けていたんですね。

三成とは最も対局の性格で、馬が合わないと思っていたけど、実は信頼されていた者。

 

石田三成は、小姓時代を共に過ごし、そのつもりはなくとも、それぞれの生き方の違いに伴い、いつの日か、たもとを分かち、敵味方になってしまった後も、それを批判せず、変えようとせず、受け入れ、心の深い部分でそれぞれを信頼していたんですね。

 

読み終わった時、感動とは違って、なんか心にズシンと来る重さというか…
なんでしょうね?
切なさ?悲しさ?
のようなものが心に残り、しばらくぼーっと外の風景を眺めていました。

 

「人にはそれぞれ一番大切にしている思想と、抗えない生き方がある。」

僕が感じた”切なさ”とは、それを同じ大きさでわかってあげることはできない。ということなのかな?

わかってあげられないとしたら、できることは、『すべてをありのまま受け入れる』こと。

同時に感じた”悲しさ”とは
「お前にその度量があるか?」
と自分に問いた時、真っ先に浮かんだ答え。
ですかね〜?

 

歴史小説の面白さとは、結果(史実)しか知らない僕らが、その過程と、人物の思想や背景を知ることで、その史実の中に入ることができることですね。

社会の教科書の1ページの中には、今日と同じような一日一日があって、それぞれの人物の思想がぶつかり合って、後に教科書に載るような歴史が動く瞬間がある。

やっぱり僕は、歴史が動く瞬間に立ち会いたい!なんて思って、歴史の中で妄想する。

1600年10月21日に、関ヶ原の草原にいたとしたら、
僕はどちらにつくだろうか?

 

一番上の関ヶ原の戦いの布陣図をご覧くださいませ。
変な武将がいます(笑)。。