光を捜し求める長い旅の途上 | 札幌のオーダー家具・オーダーキッチンなら家具工房【旅する木】

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光を捜し求める長い旅の途上

『きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ』

旅する木の社名は、アラスカの動物写真家、星野道夫氏の著書『旅をする木』から取らせてもらいました。
大学を卒業して、オリンパスでカメラの開発者として働いていた時、毎年のオリンパスの社内カレンダーが星野さんの写真だったんですね。

カレンダーの中の動物やアラスカの風景が、何かを語りかけてくるのではなく、いつの間にかその風景の中に吸い込まれているような気持ちになる写真に魅せられました。
星野さんの本を読むと、その言葉に、僕の心の深〜い部分、シーンと静まり返った早朝の湖の湖面に、ヒラヒラと一枚の葉っぱが落ちて、その微かだけど美しい波紋が心全体に広がるような心地よさを感じました。
「あ〜、この気持ちの自分、好きだなぁ」と。

それから人生の帰路に立った時、星野さんの『旅をする木』を読み、心をゼロの状態に整えるようにしています。なので、僕の持っている『旅をする木』はボロボロです。しかも3冊目(笑)。

そして、工房を立ち上げる時、何日も何日も考えた社名のいくつかの候補の中に、『旅する木』は入ってなかったのですが、どれもしっくりこなくて、読み返しているボロボロの『旅をする木』の表紙を見た時、
「あ、『旅する木』にしよう」と思ったのです。

ちなみに、社名で最後まで残った候補は…
『木風葉』と書いて「メイプルリーフ」
「楓」→メイプル+「葉」→リーフ
ん〜、わかりずらい!そして僕らしくない。小っ恥ずかしいですね(笑)。
『旅する木』でよかった!

文頭の言葉は、そんな星野さんの、数えきれないほどある、心に美しい波紋を創る言葉の中の一つ。

 

自分にとって、”光”はなんなんだろう?
すべきことはなんなんだろう?
運命とか、使命とか、役割とかって、見つけられるんだろうか?
心の中にある、この行き場のない熱い塊を、一体どこにぶつければいいんだろう?

なんてことで迷子になって悶々としていた20代、安定や、収入を鑑みず、好きだった木工の世界に飛び込んだのは、やっぱり星野さんの

『大切なことは出発することだった』

という言葉に出会って、背中を押されたところもあるんですね。

 

そうして僕が探し求めて手に入れたもの、そしていつしか手放してしまったものも含め、今振り返ると、全部、僕を照らしてくれる”光”だったなあ。と思います。

 

若い頃はがむしゃらに、何か納得するものを見つけなきゃ。人にすごいと思われるものを見つけなきゃ。
もっと光るものがあるんじゃないか。今あるものをもっと光らせなきゃ。
などなど、必死に”光”を探していたものです。
今考えると、それはそれで、必要な考え方、時期だったのかな。と思います。

 

でも、今はそういう気持ちは全くないんですね。

出会うべき人とは、出会おうとしなくても、出会ってしまうんじゃないかな?
やるべきことは、やろうとしなくても、やることになってしまうんじゃないかな?

だから、自分から”光”を見つけに行かない。

僕がすべきことは、やってきた光をきちんと受け止められるだけの、自分のキャパを大きくすること。
手に入れたいものは、探すのではなく、それを受け入れる環境を整えること。
それは、形ある状況もだけど、どちらかというと心の方。

意図したわけではないんですけど、この30年の間に、数多くの失敗を繰り返し、光の探し方が変わったのかな。

 

でも、光を探し求めたり、扉の向こうのにある光を手に入れたくて、強引にこじ開けてようとすることって、結構すごいパワーなんですよね。いや、すごいパワーが必要なんです。
そして、昔、そのパワーがあったことを知っているので、たまに今の自分の考え方や、やり方に、
「俺、歳とって、パワーなくなってきたのかな?この考え方でいいのかな?」なんて思う時もあるんですね。

50歳を超えて、体力の衰えを認めざるを得ない場面が多い、ここ最近は特に。

 

 

ちょうどそんなことを考えていた時に、こんなことがありました。

 

先日、息子が犬の散歩中に、家のカギを無くしたんです。

「家のカギ、まる(黒柴)の散歩中に落とした」
「え?マジに!だってついこの間、カギ落としてもすぐにわかるように、鍋敷き(僕が作った木片の鍋敷き)をカギにつけた。これだったら落としても絶対にわかる!って豪語してたじゃん」
「鍋敷きがはずれて、カギだけ落ちた。ほら。」
「落とすんだったら、鍋敷きの方落とせよ〜。」
「鍋敷き大きすぎて、カギの部分、ポケットから出てたから、気がつかなかった」
「カギの方をポケットに入れとけよ〜。」
「まあ、しょうがない。」
「しょうがないじゃねーよ。どの辺に落としたの?」
「わかんない。だって、新篠津(となりの村)の方まで行ったから。帰ってきて家に入ろうとしたら、なかった」
「新篠津?マジに?普段散歩しないくせに、よりによって新篠津!!!」
「しかも、歩道の雪山の上とか走った!」
「自慢するなって!じゃあ絶対に見つからないじゃん!」
「明日の朝、散歩する時、一応探してみて」
「探してって、俺の散歩コースなんて、全然新篠津まで行かないし、雪山とか走ったんなら、むしろそっちで落とした可能性の方が大きいじゃん」
「まあね」
「まあねじゃねーよ」

 

そして次の日。


僕の朝の犬の散歩は6時台なので、まだ暗い。
そして風景は濃い霧に包まれている。

珍しくその日の夜は、雪が全く降らなかったので、道路には新雪は積もってない。
「もしかしたらカギ、道路に落ちてるかな?」
なんて思って、下を向いて探しながら散歩しました。

探していると、段々と変なことを想像し始めるもので。

「もしかしたら誰かが見つける」

「これは家のカギだと知って、こっそり近所の家の玄関で試してみる」

「この辺に家は数えるほどしかないので、すぐにうちに当たる」

「ピッタリはまって玄関が開く」

「カギを持たれていたら、いつでも入られる」

「…」

などなど。
こんな風な想像は、さらに想像をかき立てて、ますます不安になるもので、いつの間にか必死に下を向いて、キョロキョロ探し始めます。
必死に探すものの、まだ暗いし、道幅は5mあって、探してる所が数メートルずれていたら、見つけられないわけで。
そんなことを知るはずもない、ノンノ(北海道犬)とまる(黒柴)は、勝手気ままにあっち行ったり、こっち行ったり、ジャンプして雪山に乗っかったり。
無くした息子に対して少しイライラもしてくる。

 

いい加減探して、見つからなくて、嫌になって、ふと顔を上げると。
遠く向こうの山の方が、オレンジ色に染まり始めていて、とても綺麗。
霧がまた幻想的。

「うわ〜、下向いてて気が付かなかったけど、目の前の風景はこんなに美しかったんだ」

その時思ったんです。

「必死にカギを探して、下を向いて嫌な気持ちになっているより、いっそ、探すのをやめて、この風景を眺めながら、可愛い犬たちと一緒に、今、この瞬間の美しさや、凛とする寒さや、雪を踏む心地よい音を感じながら気分よく歩いた方がいいや!」

 

そして

「もしカギが見つかることになっているのだとしたら、見つけようとしなくても見つかるはず。見つからなかったら、それは必要ないということだ。」っと。

それからはもう、下を向くのはやめて、遠くの空と、頬を刺す寒さと、雪を踏む足音と、犬たちのクルンと丸く上を向いている尻尾のフリフリを感じながら歩きました。

 

折り返し地点で、来た道を引き返して少しすると、ちょうど朝日が登り始めます。

こんな風景を前にしたら、寒さも音も犬たちも、そして、自分という存在さえも消えてしまいそうになる。
日が昇るまで、ぼーっと見つめていました。

そして朝日を背にして歩き始める。
まだ ”無”の状態の余韻に浸りながら、ぼーっと何を感じていたかというと、
「俺の影がクッキリしてるなあ。ああそうかぁ、全てのものが光と影の真ん中にいるんだなぁ」なんて感じのこと。
ぼーっとしてるから、なんとなくですけどね。

昇ったばかりの新鮮な日の光に照らされて、僕の影は長く、歩道の雪山の方までかかっている。
なんということなく、自分の影を追って雪山に目をやると…

え?!

なんとそこにカギが落ちていました。

 

びっくりしたとともに、心の中から温かさと嬉しさが込み上げてきました。
見慣れた形のカギを拾い上げながら思いました。

「やっぱりそういうことだよね。いいんだよね。これで」

 

朝日の方を振り向くと、いつの間にかもう結構上の方まで昇っていて、オレンジ色は消えかかっていました。

 

『きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ』
「そう。僕もその途上にいる。そして…」

 

太陽はさっきよりも明るく、強い光を放っている。

その光に促されるように、朝靄がみるみる消えていき、風景は鮮やかな、『それ自身の色』を取り戻していく。

 

「そして、これが今の僕の、光の見つけ方なのだ」