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便利さを享受したのと引き換えに失ったもの
北国、北海道の日の出は早い。
朝の4時10分くらい。
調べたら東京は4時36分。
福岡はなんと、5時19分。
意外と日本って大きいんだなぁって思う。
冬は日の出より前に犬の散歩が終わってしまっていたのに、さすがにこれからしばらくは日の出に手を合わせることは出来そうにないなあ。
それでも朝の5時代には散歩を終えて、コーヒーを挽いて淹れて、本を読むのというのが、朝のルーティーン。
「ピコーン♫」
6時と7時ちょうどに、楽しみにしているメルマガが届く。
スマホを覗くと、
【便利さを享受したのと引き換えに失ったもの】
なんか興味を惹く名題。
なんでしょうか?
ピンポーン!「想像力!インターネットに簡単に繋がって、すぐに正解にたどり着くから」
ブー!
ピンポーン!「体力!お店に行かなくても買い物ができるから」
ブー!
正解言っていいですか?
なんと、正解は『音楽』
え?
便利さを享受したのと引き換えに失ったものが『音楽』ってどういうこと?
読み進めると、
『純正律』と『平均律』
という言葉が出てきました。
今から100年前までの音楽は、本当に調和した美しいハーモニーを奏でる『純正律』で演奏されていたのです。
ところが便利さを求めて、現在のほぼ全ての音楽は、『平均律』という、ある意味、完璧を捨てて、便利さを優先された妥協の”音”で演奏されているんだそうです。
『純正律』と『平均律』
音楽に携わっている人は知っている言葉かも知れませんが、あまり一般的に知られている言葉、内容ではないですよね。
音楽に疎い僕ですが、実は、友達のKから聞いて、知っていたんです。
Kとは大学の同期で、入学式で偶然隣に座ったのがきっかけで仲良くなって、一人暮らしの僕の部屋で、しょっちゅうお酒を飲みながらKの演奏するギターに合わせて大声で歌ったりしたものです。
かれこれ35年ほどの付き合い。
Kと、木工仲間のSとは、2ヶ月に一度のペースで、ちょっと高級な料亭や寿司屋さんで食事をすることにしています。
その食事をしている最中に、子供の頃から音楽にたずさわっていて、今でも吹奏楽の楽団に所属しているKから、この言葉が飛び出したんですね。
『純正律と平均律』
楽器のチューニングの仕方の方法なんですって。
簡単に説明すると…
ん〜。簡単に説明できません。
興味ある方は YouTubeで調べてください。
結果だけで言うと、
純正律でチューニングされた和音は、ピッタリでわずかな音のうねりもなく、美しいハーモニーを奏でる。
その音は、宇宙の神秘を感じるほど、透明で澄んでいるんですって。
ただ、純正律でチューニングすると、基準とした音、例えば『ド』と、1オクターブ上の『ド』が一致せずに、少し高い音になってしまう。
二つの『ド』を同時にならすと、きれいにハモらず、微妙な音のズレができてしまうんだそうです。
この1オクターブの音のズレをよしとせず、オクターブを完全に調和させることによって生まれるズレを、1オクターブの中で均等に振り分けましょう。ということで生まれたものが『平均律』。
完全にピッタリに混ざり、溶け合う調和する音を、それぞれちょっとずつずらして、一オクターブの辻褄を合わせるチューニングの方法が『平均律』なんですね。
僕が調べたHPの人は、
「これはもう、完全に混ざり合う音を”捨てた”ということになります。つまり、完璧な音楽からの「妥協」です。」
と書いてありました。
これだけ聞くと、じゃあ楽器は全部、純正律でチューニングすればいいじゃないか。
と思いますよね。
ところが、19世紀以降、音楽はほぼ全て、平均律でチューニングされた楽器で作られているんだそうです。
なぜか?
純正律でチューニングされた楽器は、1オクターブの音がピッタリ合わないため、転調することができない不便さがあるからだそうです。
ピアノは調律に何時間もかかるので、調の異なる曲を弾く時は、その都度調律をしなきゃいけなくなってしまうんですね。
そんなことは不便ですし、同じ曲の中で、調の異なる曲は生み出されないことになってしまいます。
それで”完全な一致”を捨てた妥協の産物の平均律が主流になっていったんですって。
中学の吹奏楽部に入ったKは、当時指導していた先生が、せっかくチューニングした楽器なのに、「もうちょっと低くして」と言われて出した音の和音の響きの美しさに感動したんだそうです。
その時、『純正律と平均律』の仕組みを知ったんだそうです。
この話がなんかとっても心に刺さったんですね。
僕らは日々の暮らしの中で、自分の心をいつも平均律でチューニングしてるんじゃないかと。
固定観念だとか、勝手に自分や世間が決めた正しさだとかそんな枠の中で折り合いを付けようとているんじゃないかと。
その方が上手くいく。
そうすれは嫌われない。
そうすればはみ出ない。
そうすれば丸く収まる。
そうすれば変に思われない。
そうすれば自分を守れる。
その方が安全。
そうするのが正しい。
そうするのが幸せ。
でも、僕らはどこかで求めている。
本当の自分らしくありたい。
純粋に自分の心に正直に生きると、人とぶつかることもある。人を傷つけることもある。
それでも世間に帳尻を合わせるような生き方ではなく、自分の心の声に従って生きたい。
誰もが割り切れない思いを抱えて生きている
割り切れない思いをどこかで割り切って、生きている。
その割り切れない思いを割り切ったことを、割り切れずに生きている。
でも、これからは少しずつ、割り切れない思いを割り切らずに生きていきたい。
きっと面倒なことが多いけど、その方が最後の時、「あ〜楽しかった!」と思えるんだろう。
久しぶりに『純正律と平均律』という言葉と出会って、昔、初めてKからその言葉と、その意味を聞いた時、こんなことを思ったことを思い出しました。
【便利さを享受したのと引き換えに失ったもの】
記事では、
『時代が便利になっていく一方で、我々は失っていくものもある。それは天まで届くような精神的な大黒柱であり、幼子のような無邪気さである』
最後にふとKが言った言葉を思い出しました。
「モーツアルトの時代、音楽は純正律で奏でられていたんだ。その音を聴いてみたい。」
いつも長いブログを読んでくれて、ありがとうございます。
最近、
「ブログを楽しみにしています」
「時に笑ったり、時に泣いたりしながら読んでいます」
という言葉を頂き、とても嬉しくなります。
家具については、ほとんど触れることがありませんが、一応、家具も心を込めて作っています(笑)
最後に純正律で奏でる曲をプレゼント致します。
お聞きください。
エンヤは、現代でも純正律の美しさを追求して、音を作っているミュージシャンの一人だそうです。
美しい響きで、人々の心を癒してくれます。