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『極める』とは?〜私はあなた、あなたは私〜
『削ろう会』というものすご〜くニッチでマイナーが大会があります。
いかに薄くて幅の広いカンナ屑を出すか?を競う、鉋削りの大会です。
その北海道大会が、今週の土曜日、28日に岩見沢で開催されます。
削ろう会の上位入賞者の出すカンナ屑の厚さは3ミクロン。3/1000ミリです。
これ、とんでもない数値なんです。
1ミリを1000分割した中の3つ分ですから。
今時、ほとんどの家具屋さんも大工さんも、仕事で鉋を使うことはないんです。
そんな中、旅する木は、創業当初からテーブルやキッチンの天板など無垢の天板は、手鉋で仕上げています。(だから、水周りのキッチンに木を使っても問題ない)
なので、鉋削りには、かなりの経験があるのですが、僕らが天板を削る時のカンナ屑は、せいぜい60〜80ミクロンくらい。
3ミクロンの20倍の厚さといえば、削ろう会の上位入賞者の出すカンナ屑はいかに薄いかがわかると思います。
削ろう会のことは昔から知っていたのですが、薄いカンナ屑を出せば良いというわけではないので、今まで興味がなかったんですよね。
それなのになぜ急に、出てみよう!と決心したかと言うと…
旭川での修行時代、もう25,6年前ですね。
すでに家具業界はサンドペーパー仕上げが主流、大工はプレカットの普及により、木を扱う職人が鉋を使わない時代を迎え、鉋の需要が激減し、鍛冶屋さんがどんどん廃業していきました。
その当時から僕は鉋が好きで、日本が世界に誇る道具だと思っていたので、僕がこの先、家具職人として生きていく中で、今使っている鉋が使えなくなる(刃は研ぐと減るので)であろう20年後、30年後、鉋を手に入れようとしても、その時には良い鉋、良い刃物は手に入らないだろうっと思い、当時、安い給料にも関わらず、3万〜10万円ほどする鉋を3丁、買っておいたのです。
あれから25年経ちました。
まさか独立し、自分の工房を持って、そしてあの時の思いは変わらず、鉋に拘った仕事をしていることは、振り返ると、自分に対し誇らしくもあり、あの頃の僕に「ありがとう」っと言ってあげたい気持ちになります。
変わったことと言えば…
家具作りの好きな若いスタッフに囲まれて、老眼で定規の目盛りが読めなくなった僕は、家具作りの第一線から身を引いて、デザインや、設計作業を主にしていると言うこと。
なので、あの頃買った鉋は、まだ使ってあげていない。
僕の道具箱の一つの引き出しには6丁の鉋がしまってあって、その中の3丁はもう黒ずんで、刃物も減って、とっても良い感じになっているのに、もう3丁は新しいまま。
その引き出しを開けるといつも、ちょっと、チクッと心が痛い。
「僕の出番はまだかな?」っと順番を待っている健気さが伝わってくるから。
そこで、この鉋たちの出番を作ってあげよう。
ということと、そしてもう一つ。
今更ながら、鉋を極めたい!
という思いが湧いてきて、削ろう会の北海道大会に参加を申し込んだんですね。
という訳で、ここのところの僕は、ひたすら鉋の刃を研いでいます。
いよいよ来週に迫っているにも関わらず、まだまだ全く勝負できるカンナ屑を出せていません。
HPでも、お客さんに対しても、SNSでも、「旅する木は鉋仕上げにこだわっています!」っと公言している僕が、恥ずかしい結果で終えるわけにはいかないという、実は結構なプレッシャーを自分にかけながら、鉋たちと向き合っています。
一桁ミクロンのカンナ屑を出す鉋にするためには、今までの教科書通りの鉋の仕込みの範疇のことをやっていては出せないんです。なので試行錯誤を繰り返しています。
25年も出番を待ち続けてくれた鉋たち、最初はちょっと拗ね気味で、言うことを聞いてくれなかったんだけど、毎日真剣に向き合っているうちに、少しずつ心を開いてくれるようになってきました。
それでも今の時点で僕が出せるカンナ屑は、15ミクロン。
これでは全く勝負にならない。後数日で、この厚さの1/5にしなければならないかと思うと、ちょっと気が遠くなる。
削ろう会に向けて、いろんな鉋を仕込む道具を買い揃えたけど、まだ足りない。
今持っている道具の中で、できることは?を自問自答しながら刃を研いでいると、ふと、ある昔の光景を思い出しました。
10年ほど前に京都のお寺を巡った時のこと。
あるお寺の、一般公開していない茶室を、庭師の方に案内してもらったことがありました。
元々、仏教は宇宙の心理や法則を表現したものであり、その茶室建築は、”全ては一つ”。『自他同然』という思想を表現したものだそう。
例えば玄関に立って「ごめんください。」と住人に声をかけるその言葉は、言霊として声をかけた本人に返ってくる。「いらっしゃませ」と出迎える住人の言葉も同じように住人本人に返ってくる建築構造になっているのだそう。そこに、訪問者と住人という分け目が無いんですね。
”自分”と”相手”、”自分”と”物”という対象物としての存在はなく、全てが自分である。『私はあなたであり、あなたは私』という世界観からこれらの寺院が創造されているということでした。
この思想と建築に感銘を受け、『永遠の幸せとは?』を考えたのを覚えています。
当時、このことを書いたブログは こちら
元々、25年、待ち続けている鉋たちを使ってあげようという思いから、削ろう会に参加しようと思ったのに、いつの間にか、良い成績を納めたい。そうじゃないと恥ずかしい、みっともないっという気持ちになっていることに気がつきました。
「そうかぁ、君たちがどうなりたいか?」だよね。
25年も道具箱の中で待っていたのに、こんなにも毎日、日の当たる作業台の上に置かれて、あれやこれやいじってもらえて、檜の板を削った時の爽やかな香りに、「ねえねえ、この香り、僕が出してるんだよ!」っとはしゃいで喜んでいる鉋の刃を感じながら、
「君たちはどうなりたい?俺と君たちは一つなんだって、心はね。俺は君になるから、だから、なりたい君になるために、俺の体、腕、指、筋肉、細胞を使っていいよ。そして俺はできるだけ何も考えないから。俺の頭を宇宙の叡智を受信するアンテナとして使って」っと伝えて刃を研いだり、鉋台を調整したりするようにしました。
うっかりしていると、つい余計なことを考えてしまっている自分に気づいて、いけない、いけないっと頭を空白にしなおします(笑)。
それでもこのようなことを意識していると、何時間も研いていても、疲れることがなく、集中していられるから不思議です。
結果がどうなのかはわかりません。
それは鉋の意思なのですから。
そう思うと、とても心が落ち着いて、気楽で楽しい気持ちでいられます。
そう思った時、ふと、「ああそうか」っと思いました。
僕が鉋になった時、鉋は僕になったのだと。
鉋は鉋で、「君(僕のこと)はどうなりたい?」を感じて、なりたい僕にしてくれているのだと。
削ろう会に参加しようと思ったもう一つの理由。
「今更ながら、鉋を極めたい」
自分でも気づいていなかったけれど、削ろう会に参加しようと思った本当の理由は、むしろ、こっちだったのかも知れません。
『極める』
今の僕にとって『極める』とは?
鉋を買った頃の僕だったら、ただひたすら、技術を磨く、薄いカンナ屑を出すっということが『極める』ということだと思って、鉋と向き合ったのかも知れません。
あれから25年経って、今の僕の『極める』とは?
『対象物と意識を同一化すること』
そんなことを思いながら、鉋と向き合っています。
25年前に買った鉋が、
「やっとそこに来たね。ずっと待ってたよ」っと言ってくれてる気がしています。
そして、不思議なことは、10年も前に、そのきっかけとなる体験をしていたということ。
何か一つのことが、その人の中で形作られるのには、その体験が熟される時間が必要なのかも知れません。
いつものことなのですが、僕の場合、その時間が長すぎる…
こんな思いで鉋の刃を研いでいるのに、上手く研げてくると、ふと
「もしかしたらこれ、鉋の刃、立つかも!」
(研ぎが上手くいって、刃物と砥石がピタッとハマった時、手を離しても、刃が砥石にくっついて立っているという、奇跡的な現象)
っという、”我”が入って、試したくなる。
そうして手を離すと、鉋の刃を落として、刃先がかけてしまって、今までの苦労が水の泡に…
鉋立ったけど…←動画ご覧ください
「あ〜、なんで大事なところで、くだらない”欲”が出てしまうんだろう?」
と、刃先の欠けた鉋の刃を前に反省。
これが僕が一つのことを『極める』のに、時間がかかる理由…(笑)。。
6月28日、岩見沢のイベントホール赤れんが
10時〜16時
です。
何十人もの職人が、ひたすら鉋をかけているという摩訶不思議な光景ですが、見学自由ですので、よかったら見に来てください。